金浦について


金浦歴史


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金浦歴史

歴史

高麗時代

高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していた頃、金浦郡は三国の角逐の場でした。この地域が 最初に‘金浦’という地名で歴史の記録に現れたのは高句麗長寿王63年(475年)のことです。新羅が朝鮮半島を統一した後、景徳王1年に国土を9州5小京に再編する時、漢州に属している金浦半島を「金浦県(金浦・高村・黔丹地域)、分津県(通津・月串地域)、童城県(霞城地域)、戍城県(陽村・大串地域)、孔岩県(ソウル江西区地域)」に分け、金浦・分津・童城・戍城の4つの県は長堤郡(現在の富川)の領県に、孔岩県は栗津郡(現在の始興)の領県となりました。昔、童子忽県(または 憧山)と首爾忽県は景徳王16年にそれぞれ童城県(長堤郡 領県)、戍城県(長堤郡 領県)と改名された後、高麗初に戍城県は守安県になりましたが恭讓王3年に通津県に併合されて歴史から消えました。

高麗時代

高麗の成宗時代には関内道(現在の京畿、黄海地域)に、顕宗9年(1018年)には樹州(富平府)の属県となりましたが、明宗2年(1182年)に金浦が分離し、ようやく監務を設けることになり、神宗元年(1198年)にはこの土地に御胎を埋めた後、県鈴を設けました。
陽川の昔の村の齊次巴衣県は景徳王16年に孔岩県に改め、栗津郡の領県となり、高麗の顯宗 9年(1018)には樹州に属しましたが忠宣王2年(1310)に再び陽川になって県鈴を設けました。

朝鮮時代

朝鮮王朝太宗14年(1414年)の8月に陽川県を合併して地域名を金陽県と名づけましたが、同年10月また分離して陽川は衿川(現在の始興)、金浦は富平府に編入させその名前さえも消えてしまいましたが、同王朝16年の7月また復帰して金浦県が設けられました。仁祖10年(1632年)には北城山に章陵を安置し、金浦県から金浦郡に昇格して高宗32年(1895年)に改編され、仁川府に属する郡となり、高宗33年(1896年)には4等郡守の統治下の郡となりました。
昔、通津と月串の辺りにあった平淮押県(または 比史城, 別史波兒, 比北史城)県は、景徳王16年の改定時に分津県に改められ長堤郡の属県となり、高麗時代に通津県に改名された後、恭譲王3年(1391年)に童城県・守安県の2つを合併して初めて監務を設け、朝鮮王朝になって太宗13年(1413年)に県監を設けました。粛宗20年(1694)には通津府に昇格、高宗32年の改編の時に再び通津郡に改められ、同王33年には3等郡守の統治下の郡となりました。

近代

1914年3月、全国規模の行政区域改編を行う時に金浦、通津、陽川郡が「金浦郡」に統合されました。統合前に金浦郡に属していた郡内・石閑・古縣内の3面は郡内面に、 黔丹・麻山・蘆長の3面は黔丹面に、林村・高欄台の2面は高村面に、通津郡に属していた府内面・甫口串面・月餘串面・所伊串面・古伊串面・半伊村面・迭田面・奉城面・大坡面・陽陵面・桑串面は地域調整により月串、霞城、陽村、大串面に、陽川郡の縣内面・三井面・南山面・将軍所面が陽東・陽西面の総9ヶ面に整えられました。

沿革

  • 1914. 3. 1. 金浦・陽川・通津県が金浦郡へ編入(9面)
  • 1963. 1. 1. 楊東・楊西面がソウル市に編入(7面)
  • 1973. 7. 1. 富川郡の梧亭面・桂陽面が編入(9面)
  • 1975.10. 1. 梧亭面が富川市へ編入(8面)
  • 1979. 5. 1. 金浦面が邑に昇格(1邑7面)
  • 1983. 2.15. 通津面を新設 (1邑8面)
  • 1989. 1. 1. 桂陽面が仁川市へ編入(1邑7面)
  • 1995. 3. 1. 黔丹面が仁川広域市へ編入 (1邑6面)
  • 1998. 4. 1. 金浦郡から金浦市に昇格(3洞6面)
  • 2003. 9. 1. 金浦3洞が沙隅洞・豊舞洞に分洞(4洞6面)
  • 2004. 1. 1. 通津面から通津邑に昇格(1邑5面4洞)
  • 2009. 9. 1. 高村面から高村邑に昇格(2邑4面4洞)
  • 2011.11.14. 陽村面から陽村邑に昇格(3邑3面4洞)
  • 2012. 9.24. 場基洞を新設(3邑3面5洞)
  • 2013.10.28. 金浦2洞から九来洞が分洞(3邑3面6洞)
  • 2015. 2. 2. 金浦2洞から雲陽洞が分洞(3邑3面7洞)
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